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更新日:2020年2月1日

西郷隆盛 奥山家と松の木

19世紀半ば、この古い松の下のこの場所で、歴史上最も有名な武士のひとりが、離島で流刑に服すため、自らを移送する船を待ちながら、この国の未来について思索にふけりました。

愛国的な反逆者

西郷隆盛(1828-1877)は、油断の許されない封建政治の中で激動の人生を送りました。彼は信望を集める地方の役人として仕えていましたが、徳川政府を脅かす活動にも携わっていました。
 薩摩藩(鹿児島)の下級武士の家庭に生まれた西郷は、まだ若い頃に江戸(東京)へ使節として送られました。しかし、しかし、彼は薩摩に返され、派閥政治により捕えられて奄美大島に流されました。
 彼は自分の信念のために生涯情熱的に戦いました。その信念は、将軍の辞任から、韓国との関係、藩制度の解体に至るまでのすべてを網羅していました。その信念によってしばしば目上の人々と衝突し、1862年に再度捕らえられ、今度はさらに遠方、奄美群島の南にある沖永良部島に流刑にされました。
SaigoPineTree_01 沖永良部島への移送船を待つ間、当局は西郷を武士の監視のもと奥山家に滞在させました。彼は17日間をここで過ごし、その多くの時間を奥山家の庭にある大きな松の木の下に座って日本のあるべき姿について思索に耽ることに費やしました。この松は腰かけ松(seat-pine)として知られるようになりました。奥山家の家屋は、薩摩の統治者のために作成された地元の人口の記録や奥山家の家系の詳細などの史料の保管所でした。これらの資料は現在町に寄贈されており、展示されています。

いかつい姿

SaigoPineTree_03奥山家での滞在は短かったかもしれませんが、西郷は島の人々に強い印象を残しました。力強い顎を持った西郷は、当時の日本人としては大変大柄の身長180cmでした。彼は、「役人は正義でなければならない、そうでなければ人々を導くことができない」「私は国のためにすべてを差し出すので、あなたも歯を食いしばって全力を尽くしてほしい」などの言葉を通じて、より良い日本のためのビジョンを共有しました。
 西郷は1864年に赦免され、1868年の明治維新で中心的役割を果たしました。明治維新により、天皇に政権が戻り、日本の歴史の流れが変わりました。西郷は新政権では要職に就きましたが、行き過ぎた西洋化などに対する考えの違いから職を辞し、薩摩に戻りました。
 1877年に政府に対する反乱を起こしましたが失敗し、二発の銃弾を受けたあと自害しました。彼の人生は2003年のハリウッド映画「The Last Samurai(ラストサムライ)」の部分的なモデルとなりました。

※西郷は日本でその理想主義と勇敢さを讃えられています。

 

行き方

  • 奥山家と西郷隆盛の松は、車で空港から30分、亀徳新港からは15分です。

 

お問い合わせ

所属課室:おもてなし観光課商工観光係

鹿児島県大島郡徳之島町亀津7784番地

電話番号:0997-83-0731

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