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朝潮太郎という相撲取りは、1959年に日本の国技の頂点である横綱の地位に昇進し、徳之島の誇りとなりました。朝潮は後に親方になり、日本初の外国人大関力士(ハワイ出身の小錦)の育成に携わったことによって相撲の国際的な普及に貢献しました。
1929年に井之川で米川文敏として生まれた朝潮は、徳之島がまだ第二次世界大戦後の困難のさなかにあった時に相撲の力をつけました。彼は稽古の相手に怪我をさせないよう手加減をする優しい巨人としての評判を築きました。当時、徳之島は米軍の統治下にあり、旅行はまだ制限されていましたが、彼は19歳の時当局に通知することなく島を離れました。彼は神戸の相撲部屋に入門し、1948年に初場所を踏みました。
朝潮は、1951年までに幕内に昇進し、翌年には朝潮を襲名するとともに二人の横綱を破る番狂わせも起こしました。本場所で5回優勝し、そのうちの4回は毎年3月に行われる大阪での春場所においての優勝でした。1959年、朝潮は30歳でついに横綱に昇進を果たしました。朝潮は、数百年もの相撲史上で46番目に横綱のタイトルを獲得した力士です。
しかし、この過酷な競技は朝潮の身体をむしばみました。怪我が続いたためその後の成績は振るわず、一場所の優勝と一場所の準優勝を獲得した後、1962年に引退しました。
朝潮は1971年に自分が力士として所属した高砂部屋の親方になりました。親方としては、四代目朝潮太郎(朝潮自身は三代目としてその名を継承していました)とハワイ生まれの日系サモア人である小錦が、二番目に高い力士の地位「大関」に昇進するのを見届けました。実のところ、小錦は日本以外の出身でこの地位に到達した最初の力士で、相撲ファンの中にはもし小錦が日本出身であれば横綱に昇進していただろうと信じる人もいました。いずれにせよ、小錦は非常に人気があり、この歴史あるスポーツにおいて、後に続く多くの外国人力士のために道を開きました。
朝潮は、1988年後半に58歳で脳卒中により亡くなりました。朝潮を記念する像は、地元の井之川の人々が中心となって集められた資金によって、1995年に完成しました。
島の最高峰、高さ645メートルの円錐形の井之川岳は、横綱の化粧まわしを身に着けた威厳に溢れる潮太郎の像に完璧な背景を添えています。
※像の隣には、この地元の英雄の人生と業績を記録する博物館も建設される予定です。
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