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更新日:2022年4月14日

井之川湊・津口番所

読み方 いのみなと・つぐちばんしょ
史跡区分 史跡
所在集落 徳之島町井之川

 

昭和30年代の井之川(ウイニグスクからイノミナト方向)

昭和30年代の井之川(ウェンニグシクからイノミナト方向)

 

井之川(いのかわ)は薩摩藩治下の慶長15年(1610)から明治5年(1872)まで天城町の湾屋(わんや)とともに藩の指定港としてにぎわいました。イノミナトには千石積の船三艘が同時に停泊でき、当時船をつないだ五百石クビリ、千石クビリ等といわれる珊瑚礁の穴もまだ残っています。

昔は、井之川湊に名田川(ナーダンコ)と前川(メーゴ)という2つの川が流れ込み、川から運ばれる土砂の流入が多かったため水深が浅くなりがちでした。そこで文政2年(1819)に島役人を勤めていた福美、真勝、頂山、鶴雄等が自費でもって川筋を変更し【注1】、併せてしゅんせつ工事をしてからは湊も深くなり、荷の出し入れが楽になりました。かつての川が流れていたあたりを古川(ふんご)といい、地名にその名残を見ることができます。

ところで文久2年(1862)7月初めに徳之島へ流罪の身となっていた西郷隆盛は、この湊から閏8月14日沖永良部島へ向けて出帆しました。西郷は船待ちの17日間、井之川の奥山家に逗留していました。

 

津口番所とは船の出入りを監視する役所のことで、ここには津口横目(つぐちよこめ)と呼ばれる役人が数人の部下を連れて詰めていました。

奄美諸島に津口番所がおかれたのは、元禄10年(1697)頃からのことです。船の出入りを確認したり、島脱けの防止、他の島への渡航許可や砂糖などの密貿易の取り締まり、他藩の船や異国船の見張りといった役目がありました。ただし、津口番所の仕事が暇なときは、勧農係といった他の係も兼務し、噯役場(あつかいやくじょう)での仕事をしたり、他の役人と共に管内の見廻りや取締りに出ていました。

この周辺には役所が集中し、「役場晴(やくじょばれ)」「蔵晴(くらんばれ)」「番所晴(ばんしゅばれ)」といった地名が残り、浜下り行事で窯祭りをするときの祀詞にも「番所降り口(ばんしゅうりぐち)」という表現が残っています。また旅の神として知られたイノヌイビガナシがすぐ近くに祀られており、帰藩する代官たちや旅人たちはそこへ寄り、航海の安全を祈ったことでしょう。

〈注釈〉
【注1】 200年前の名田川は、現在も県道沿いにあるフーシンコ岩の南側を通って、湊へと流れていました。

 

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