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読み方 | いのかわあつかいやくじょうあと |
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史跡区分 | 史跡 |
所在集落 | 徳之島町井之川 |
薩摩藩の支配下にあった明治5年までここには噯役場(あつかいやくじょう)と呼ばれる行政機関があり、与人(よひと)、横目(よこめ)、目指(めざし)、筆子(てっこ)等が常勤して井之川噯(いのかわあつかい)【注1】の仕事を取り仕切りました。
薩摩藩治下〈慶長15年(1610)~明治5年(1872)〉徳之島は3つの間切(まぎり)、6つの噯に行政区域が分かれており、このうち東間切(ひがしまぎり)は亀津(かめつ)と井之川の2つの噯に分かれていました。この地には噯の役場(やくじょう)が建ち、井之川、諸田(しょだ)、神之嶺(かみのみね)、久志(くし)、母間(ぼま)、轟木(とどろき)、山(さん)の村々を管轄しました。
井之川は天城(あまぎ)の湾屋(わんや)と共に藩の指定港として繁栄し、津口番所(つぐちばんしょ)やお蔵など各種の行政施設や宿がそろっていました。このため弘化3年(1846)亀津が大火に見舞われた際、代官所が井之川に移ったこともありました。
〈注釈〉 | |
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【注1】 | 噯(あつかい) |
「噯(あい)」は現在「おくび。げっぷ」の意味ですが、薩摩藩の行政用語で「あつかい」と読みます。ふつう江戸時代は「取噯(とりあつかい)」といった用語に使い、「訴訟の仲裁をする」の意味に用いられていますが、薩摩藩での噯は、外城(とじょう。後に郷(ごう))制における麓(ふもと)三役と呼ばれる上位の責任者を指します。 |
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