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読み方 | だいかんしょあと |
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史跡区分 | 史跡 |
所在集落 | 徳之島町亀津 |
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警察署や図書館にも使用されたこの敷地(字古珍郷(くちんごう)2884番地)は、かつて薩摩藩の代官所がありました。徳之島がその支配下に入ったのは慶長14年(1609)の秋徳(あきとく。現亀徳)の戦い以降のことです。その7年後の元和2年(1616)に相良 勘解由(さがら かげゆ)という人が初代の奉行(のちに代官)として着任し、以来、明治2年(1869)までの253年間続きました。その間131名もの代官が赴任しました。
代官所の建物を別に大仮屋(おおかりや)と呼びました。その東隣(旧県道の四辻のあたり)には上仮屋(うえかりや)、前仮屋(まえかりや)、東仮屋(ひがしかりや)、西目仮屋(にしめかりや)という建物が建ち並び、そこには同しく薩摩から遣わされた附役(つけやく。代官の補佐役)3人、横目(よこめ。違反者の取締官)2人が居住して代官を補佐しました。さらに附役の下には島人の中から選ばれた書役(かきやく)という島役人が8人勤めて徳之島三間切(まぎり)【注1】の政治を司っていました。
当時、代官の主な仕事は、農民から税金を徴収して藩に納めることでしたが、特に第二次砂糖惣買入れ制【注2】が実施された天保元年(1830)以降は取締りが厳しく、農民たちにとっては恐ろしくて立ち寄りがたい役所でした。この敷地の周囲に積まれた石垣は当時のもので、徳之島前録帳【注3】によれば、「代官所と壁、石垣が破損したので、面南和間切(おもなわまぎり)の与人(今の町長)福信ほか2名が、文政13年(1830)に自費で新造した」と記されています。
その後、明治維新により代官所は在番所(ざいばんじょ)となり、明治10年「大島警視出張所徳之島巡査派出所」、そして大正15年に徳之島警察署となりました。警察署は平成6年に南区の現在地に移転し、一時町立図書館として利用された後、今は徳之島町合同会館として公民館講座などに利用されています。
〈注釈〉 | |
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【注1】 | 徳之島三間切(まぎり) |
当時は東間切(ひがしまぎり)、西目間切(にしめまぎり)、面南和間切(おもなわまぎり)に行政区域が分かれていました。 | |
【注2】 | 第二次砂糖惣買入れ制 |
税金として納めた残りの黒糖も藩が物々交換で買い上げる制度 | |
【注3】 | 徳之島前録帳 |
薩摩藩時代の面縄院家(おもなわいんけ)の公的日誌 |
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