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読み方 | たかちほじんじゃ |
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史跡区分 | 地福之島三十三聖地旧跡 |
所在集落 | 徳之島町亀津 |
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明治の初め、政府による神仏分離令を受けて全国に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)【注1】運動が起きました。奄美地方においても明治2年(1869)に薩摩藩主から命が下り、寺を廃し12の神社を建てました。亀津高千穂神社は、村の聖地であった麦穂峯(むぎほみね)と呼ばれる地に、在番(明治2年「代官」を「在番」と改称した)谷村竜助によって大隅国霧島神宮の祭神ニニギノミコトが分奉され、同年10月に社屋を建立して御神鏡を納めました。初代の社司は村野村多美という人でした。
『徳之島事情』には「明治2年、高千穂神社が各三ヶ方(亀津・面縄・阿布木名)に鎮座し祭礼を執行するようにしたところ、仏教も次第に衰え、特に明治5年には全島民が宗旨として信じてきた安住寺は神道を信ずることになり、死者があるときは神葬祭をするようになった」ほか、「毎年2月9日と9月9日には家運長久、災厄のはらい、五穀豊穣を祈願した」と書かれています。その後、戦時中は出征兵士の武運長久を祈願する神社として信仰を集め、戦後は例祭のほか冠婚葬祭などを司祭し、地区住民の精神生活を支える重要な機能を担って現在に至っています。
なお、明治3年安住寺跡に全島共立学校を建設した際、同地に菅原神社が建てられましたが、明治9年この麦穂峯の地に松原神社が創建されたのを機に移転合祀されました。その松原神社も明治43年に社殿が古くなり高千穂神社に合祀されています。高千穂神社は明治以降の徳之島の信仰形態の流れを知るうえで貴重な文化財であることから、昭和51年徳之島町指定文化財に定められました。
〈注釈〉 | |
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【注1】 | 廃仏毀釈(はいぶつきしゃく) |
廃仏毀釈とは仏教を排斥して寺や仏像などを壊すこと。明治の初めに神道を定着させるため、薩摩藩においては特に激しい廃仏運動が断行されました。しかし、明治9年にこの政策は中止されました。 |
『亀津安住寺』へ | ![]() |
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