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更新日:2022年4月14日

秋徳湊の古戦場跡

読み方 あきとくみなとのこせんじょうあと
史跡区分 史跡
所在集落 徳之島町亀徳

 

戦前の亀徳港

 

亀徳(かめとく)の海岸一帯は今でこそコンクリートで覆われていますが、アキチュ浜(東側はカネイク浜)と呼ばれ、ハマオリ(稲の収穫祭)などが行われるのどかな砂浜でした。

ここには、徳之島の歴史上最大ともいえる「秋徳湊の戦い」の史実が刻み込まれています。慶長14年(1609)の事でした。薩摩藩は、琉球王国を従属させることを目的に軍船75隻と兵士3000人の軍団を持って、旧暦3月4日山川港を出港しました。

またたく間に奄美大島各地を平定すると3月20日の早朝には軍旗をなびかせながら秋徳湊(現在の亀徳港)に入ってきました。

事前にこのことを知っていた琉球王国側も、これに備えて防衛団をつくって待ち構えていたため、敵味方入り乱れての接近戦となり、多数の戦死者が出たと記されています。

徳之島に残されている旧記「三家録由緒記」によると、東之主(ひぎゃのしゅ。第3代島主)の息子で掟役(おきてやく。村主)だった佐武良兼(さぶらがね)と弟思呉良兼(めぐらがね)の兄弟が人々を指揮して先頭に立って奮戦しましたが、薩摩軍の鉄砲の直撃弾を受けて戦死し、ついに徳之島は降伏したと記されています。

この「薩摩藩琉球侵攻」以降、徳之島は他の奄美の島々と共に琉球王国から切り離され、薩摩藩の支配下へと移ることになりました。今から400年ほど前の事です。

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お問い合わせ

所属課室:社会教育課郷土資料館

鹿児島県大島郡徳之島町亀津2918番地

電話番号:0997-82-2908

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