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読み方 | とやままる・ぶしゅうまるいれいひ |
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史跡区分 | 地福之島三十三聖地旧跡 |
所在集落 | 徳之島町亀徳 |
昭和19年9月のことです。徳之島には1万人ほどの兵隊が配属され、食料が不足したことや島での戦闘が近いこともあり、国の命令で子どもたちは、本土に疎開させることになりました。武州丸も亀徳(かめとく)や井之川(いのかわ)の年寄りや子どもたち152名を乗せて亀徳を出港し、古仁屋(こにや)を経由して鹿児島を目指しました。「行きたくない。」と言って泣く子どもたちを叱りつけるようにして乗せたと言います。途中の海にはアメリカの潜水艦がうようよいましたが、親たちもまだ島にいるよりも安全だと思っていたのです。「明日は鹿児島に着く。」とようやくホッとしかけたころ、武州丸は魚雷を受けました。あっという間に沈んだそうです。時々潜水艦の潜望鏡が見えたと言いますから、ずっと武州丸の船団を追いかけていたのでしょう。わずかに数名が助かっただけでした。この事件は公表されず、戦後になっても国からの補償はありませんでした。
この武州丸事件の数ヶ月前のことです。「富山丸撃沈事件」がこのなごみの岬のほんの目と鼻の先で起きました。沖縄へ向かう輸送船団が敵の潜水艦の攻撃を受けたのです。富山丸は7386トンもある大型船でしたが、スクリューも壊れ、わずかに5ノットというノロノロ走行で、まさに運を天に任せての航行でした。それにも関わらず約4600人の兵隊と一緒に大量のガソリンを積んでいました。わずか3発の魚雷を受けた富山丸は大爆発を起こし、海面に広がったガソリンは燃え上がりました。そのため、島のすぐ近くを航行しながらそのほとんどの人たちが焼け死んだのです。亀徳の人たちは小船を出して、一生懸命救助活動にあたりましたが、その惨状を見た人たちは、「まるで地獄のようであった。」そうです。回収することのできた遺体は、この岬の下の海岸で荼毘に付されました。
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