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ホーム > 町の紹介 > 文化 > 館内案内 > 徳之島のあゆみ > 『郷土の先人たち』の紹介

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更新日:2013年1月6日

『郷土の先人たち』の紹介

徳之島の地に生まれ世に名を残す先人たちは、それぞれの思いを胸に抱き強い信念を持って生きてきました。彼らの生き方は今の私たちに勇気と希望を与えてくれます。そのような偉大な先人たちを紹介します。

氏名 生年月日 出身 功績
嶺山 嶺文 天保14(1843)年 花徳 明治36年地租改正のとき花徳周辺の山を共有林として残すことに成功。また不毛の地であった里久を肥沃な水田地帯に変え、花徳を全島一の米生産地にした。測量機器もない時代に一人でトンネルを掘り、落差の大きかった当田川の水を引き大水田を作り、水路を地区に開放した。里久川に「嶺山橋」という橋があり、「嶺山嶺文翁頌徳碑」も地区住民により立てられている。
[詳しくは下記PDFをご覧ください]
嶺山嶺文翁頌徳碑建設記念誌(PDF:3,836KB)
山 徳峯

弘化3(1846)年

10月15日

亀津 亀津の安住寺(現在のNTT)に有志(徳峯の父の山徳善、柳義昇、安田佐和応、竜禎道、指宿文都志、津留義祐)が協議して資材を出し合い学校を開いた。この学校経営に当たったのが徳峯であり、師員には旭福泉と福沢福祐が就任、全島から50数人が入学した。
日本一の学士村や亀津断髪の原点は、この郷校にあるといわれている。徳峯はその後亀津他6カ村の戸長や県議を歴任。
明治32年6月23日没。
安住寺住職から四書五経十八史略を学び、書・絵画にも秀で「南峨」の号を持つ。
林 元俊 万延元(1860)年 花徳 山村ほか五ケ村の戸長を勤め、明治31年に徳之島出身国会議員第1号となる。鹿児島農工銀行設立委員、大島興行設立し社長。島資本による海上交通を目指した。しかし保有船のうち一隻が台湾で座礁し、この目的は果たせなかった。
吉満 義志信

万延元(1860)年

3月28日

亀津 明治19年古仁屋警察署長代理を振り出しに県議、東方、西方、鎮西、亀津、天城、伊仙村の各村で戸長・村長などを歴任。明治20年代から大正中期にかけて地方行政官として活躍した。
明治28年に江戸時代から明治中期までの主要な出来事や地図・民俗・衣食住・歴史・統計などが色付き絵図で紹介されている「徳之島事情」をまとめた。
大正7年10月4日58歳で没す。
嶺山 時善 文久3(1863)年 亀津 鹿児島師範卒。大島、沖縄で教職につき、のち官界に入り、沖縄税務署長。徳之島から2人目の国会議員。「東京奄美会」の結成を指導、鰹船建造補助金1隻あたり300円をとり、鰹船130隻時代を築いた。大島紬同業組合結成、黒糖の大阪出荷、義務教育6年制の導入を行った。
大保 富哉 慶應元(1865)年 亀津 キリスト教牧師徳之島人第一号。25歳のとき世界放浪の旅に出、サンフランシスコにおいて宗教活動に身を置く。沖縄教会副会長、東京下落合教会設立。ロサンゼルス、徳之島、ハワイなどで牧師。
久留 義郷 明治11(1878)年 亀津 東京大学独法科を卒業。高等文官試験に合格、鉄道省入、鉄道局長。衆議院議員。第二代東京奄美会会長。著作に「奄美愛郷百話」ほか。
上村 清延

明治12(1879)年

1月23日

亀津 亀津尋常高等小学校、鹿児島一中(現在鶴丸高校)、一高から東京帝国大学文学部卒業
七高、海大、埼玉大、駒沢大でドイツ文学の教授となり、奄美で最初の文学博士となる。
関東徳州会会長も歴任。
昭和32年11月1日78歳で没す。
内山 尚忠 明治16(1883)年 花徳 早稲田大学専門部商科卒。32歳で県会議員に当選。大島新聞創刊者。編集者に「徳之島小史」を著した坂井友直、琉球中央政府奄美地方庁初代庁長の沖野友栄、奄美新聞創刊者新天領、後に大島日報となって、肥後吉次、記者に小林正秀。数多くの新聞人を育てた。
亀沢 道喜

明治16(1883)年

5月4日

亀津 明治40年3月日本大学高等部卒業、昭和5年亀津村長に就任、昭和19年辞任、昭和23年7月亀津町長に当選以来昭和31年9月まで町長、昭和30年1月全国町村会会長より表彰状を受く。
昭和37年11月13日没。
昭和37年最初の徳之島町名誉町民
林 為良 明治17(1884)年 花徳 早稲田大学商学科卒。明治44年大島電気(株)を創立、取締役となる。奄美への電力導入第一号の功労者の一人。34歳で県下で最も若い2世代議士となるが、出馬は1回のみ。のち家業に専念。
奥山 八郎

明治19(1886)年

3月10日

亀津 亀津尋常高等小学校、鹿児島一中、五高から東京帝国大学法学部卒業
裁判所判事から弁護士に転身、日本弁護士連合会会長、第五代奄美会会長、日本復帰対策委員長等を歴任
昭和42年10月1日81歳で没す。
名瀬市名誉市民、徳之島町名誉町民、勲一等瑞宝章受賞
[詳しくは下記PDFをご覧ください]
先人に学ぶ上巻【奥山八郎】(PDF:6,428KB)
盛島 角房

明治19(1886)年

10月15日

亀津 亀津尋常高等小学校、宮崎県延岡中から東京高等師範学校(現在筑波大学)に入学したが、明治43年に中退して台湾台中公学校の柔道教師となる。
明治45年北京坂西公館に入り、大正時代から終戦まではウジュムチン・アカバ・百霊廟の各特務機関長を歴任。
蒙古自治政府徳王の顧問となる。
戦後帰国して昭和21年7月26日60歳で没す。
[詳しくは下記PDFをご覧ください]
「蒙古独立運動の先駆者盛島角房小伝」松田清(徳之島郷土研究会報16号から)(PDF:5,503KB)
徳 三宝

明治20(1887)年

12月12日

天城町兼久 亀津尋常高等小学校から鹿児島一中分校(現甲南高校)へ進学。
そこで柔道との出会いがあり、明治38年九州中学校柔道大会で優勝。翌年講道館に入門。明治42年3段に昇進する。同年東京高等師範学校に入学。明治43年正月には講道館の鏡開きで、三船久蔵5段(後の講道館長)と大試合で引き分けとなり、4段に昇進する。全盛時代は講道館の四天王と呼ばれた。昭和20年の東京大空襲で59歳の生涯を閉じる。身長176cm、体重94kg。柔道9段。
[詳しくは下記PDFをご覧ください]
先人に学ぶ下巻【徳三宝】(PDF:6,126KB)
龍野 定一

明治22(1889)年

3月6日

亀津 亀津尋常高等小学校、鹿児島二中、広島高等師範学校(現在広島大学)卒業。
福岡、鹿児島、広島、京都で教師として手腕を発揮。35歳で大島中学校(現在大島高校)の校長となり、「厳訓無処罰」の教育を実践、多くの師弟を育てる。又、全国公民館連絡協議会会長等を務めた社会教育家でもあった。
昭和61年7月29日97歳で没す。
名瀬市名誉市民、徳之島町名誉町民
[詳しくは下記PDFをご覧ください]
郷土の先輩龍野定一(PDF:1,112KB)
先人に学ぶ4集【龍野定一】(PDF:3,685KB)
肥後 憲一 明治23(1890)年 亀津 大正11年、名瀬町で「大島朝日新聞」を創刊。本土の新聞と劣らない新聞であった。奄美を代表する新聞で、東京、大阪、神戸、福岡、朝鮮、満州、台湾に支局を持った。この新聞社を弟に譲り、後に県議選に出馬し失敗し、あらためて「大島日日新聞」を別に創刊。兄弟で別々に新聞を発行したので、市民は驚いたという。47歳で死去。
川浪 知熊

明治23(1890)年

12月29日

亀津 幼名を伊地知熊。大正6年京都帝国大学工学部卒業後、阪急に入社。神戸六甲山(931m)のロープウェイの建設責任者となり、着工後1年で昭和6年9月に開通させる。これは国産ロープウェイの第1号であった。
戦時中は、東京多摩地区のロープウェイ建設を担当。戦後は北海道函館山のロープウェイも設計、日本各地の名所作りに貢献した。
昭和45年4月19日82歳で没す。
安田 重雄 明治27(1894)年 亀津 亀津尋常高等小学校、鹿児島二中、熊本五高、東大法科卒業。クリスチャン裁判官。終戦時北朝鮮海洲)地方法務院長。戦後極東軍事裁判が始まると奥山八郎弁護士の招きで、A級戦犯2名の弁護団に加わる。弁護料を無料で弁護するなど美談が多い。国際的神学者吉満義彦は義弟になる。
勝 元清

明治30(1897)年

9月28日

亀津 亀津尋常高等小学校卒業。亀津郵便局長、奄美地区特定郵便局長会会長。徳之島郷土研究会員として戦時中の徳之島を克明な日記で綴った「私の回顧録―日記抄」を発表。郷土史研究の一級の資料となっている。
秋武 喜祐治

明治32(1899)年

6月3日

亀徳 大正6年3月鹿児島県師範学校講習所卒業。昭和21年2月亀津町長に就任、昭和25年6月亀津町農業会長に就任、昭和30年6月亀津中央農協長に就任、昭和31年9月亀津町に就任、昭和33年4月初代徳之島町長に就任以来5期20年町政を担当、昭和49年勲五等瑞宝章受賞、昭和53年日本赤十字社金色有功賞、昭和55年南海文化賞を受く。平成3年3月3日没。
昭和56年徳之島町名誉町民
乾 純之助

明治34(1901)年

1月29日

花徳 花徳尋常高等小学校卒業後、大正7年大阪の砂糖合資会社に入社。大正14年、神戸に糖蜜・砂糖再生業を開業。
昭和6年から20年まで台湾や沖縄で砂糖製造や品質の研究、戦後は大和製糖株式会社を設立し、アフリカナタール原産「NCO310号」の島内普及に尽力した。
徳之島の基幹産業砂糖黍の品質普及が徳之島糖業の礎となった。
昭和62年8月28日87歳で没す。
徳 武義 明治35(1902)年 亀津 沖縄一中、熊本五高、京大法科、カリフォルニア大留学後同志社大教授、多摩少年院院長。10年間で世界最低水準にあった日本の少年矯正活動を世界一にした。社会から白眼視されてきた少年院で愛と思いやりの哲学を実践した。
吉満 義彦

明治37(1904)年

10月13日

亀津 伊仙尋常小学校、鹿児島一中、一高、東京帝国大学文学部卒業
父、吉満義志信が官選戸長・村長のため、小学校時代は伊仙で過ごす。昭和初期の日本近代哲学思想の孤高。カソリック哲学者・実存哲学者・神秘思想家として知られる。上智大学教授。教え子に遠藤周作。遠藤に文学の道を勧めた。
昭和20年10月23日42歳で没す。
吉満義彦全集(講談社出版研究所)1984.
近代日本が生んだカトリック思想家としては最も著名な人物の全集。推薦文に哲学者森有正は「彼にせめて5年の生命を与えたならば、戦後日本の哲学、思想、宗教はまったく変わった発展を遂げたであろう」と記した。
[詳しくは下記PDFをご覧ください]
「吉満義彦と徳之島」寳田辰巳(徳之島郷土研究会報31号から)(PDF:337KB)
肥後 吉次

明治40(1907)年

2月10日

亀津 昭和9年3月日本大学法文学部法律学科卒業、昭和23年名瀬市議当選、同年臨時北部南西諸島経済復興委員会会長、昭和26年臨時知事、昭和29年鹿児島県議会議員に当選以来平成3年まで県議、昭和44年10月藍綬褒章、昭和52年4月勲4等、昭和59年4月勲三等瑞宝章、昭和62年10月自治大臣表彰を受く。
平成4年徳之島町名誉町民
村上 清信

明治40(1907)年

12月24日

花徳 花徳尋常高等小学校から東京都の保善中(現在の私立保善高校)に進学、明治薬学専門学校(現在明治薬科大学)を卒業後、濱野商事(株)に勤務する。
昭和7年第10回ロスアンゼルスオリンピックにボクシングフライ級に日本代表として出場し、将来を期待されたが、病に倒れ、昭和26年42歳の若さで生涯を閉じる。
国内外での公式試合59試合中、KO勝ち17回、TKO勝ち23回、判定勝ち16回、判定負け1回、棄権2回。徳之島出身として最初のオリンピック選手である。
前田 村清

明治41(1908)年

3月25日

亀津南原 尾母尋常高等小学校卒業後、上阪、川崎車両の溶接工として技術を磨く。昭和25年、関西金属工業株式会社を設立し、発展の一途をたどる。当時の奄美出身者の就職希望者を多く受け入れ、郷里への善意や奉仕も怠ることなく、図書館、公民館、神社再建、島内の各学校へ文具や書跡等の寄付も数多くある。更に奄美の日本復帰や観光、農業、畜産振興にも貢献した。
昭和59年1月7日76歳で没す。徳之島町名誉町民
[詳しくは下記PDFをご覧ください]
先人に学ぶ4集【前田村清】(PDF:5,336KB)
矢沢 一翠 明治44(1911)年 母間 本名は一義。旧制大島中、東京高等師範美術科。戦前は岐阜、台湾で教壇に立ち、戦後鹿児島短大教授。洋画家。社団法人創元会理事、鹿児島県美術協会初代会長。
直島 秀良

明治45(1912)年

1月10日

花徳 昭和6年3月神戸専修高等簿記学校卒業。
昭和23年8月1日東天城村役場助役就任、昭和33年6月徳之島町助役主任、昭和53年4月徳之島町長就任。
昭和55年11月28日没
昭和59年徳之島町名誉町民
川上 南溟

大正4(1915)年

3月5日

母間 母間尋常高等小学校、鹿児島師範学校卒業。
戦後は鶴丸高校や鹿児島大学教育学部の書道講師として活躍。昭和47年に鹿児島大学教授となる。
鹿児島県書道会会長、日展審査委員。
平成10年1月13日84歳で没す。
鹿児島県民表彰、勲三等瑞宝章受賞
本名:川上栄
保 直次

大正5(1916)年

2月5日

井之川 昭和7年神之嶺尋常高等学校卒業。昭和23年(資)森永製菓キャンディーストア設立、昭和34年森永会館、昭和36年城山観光(株)、昭和39年南映タクシー(株)、昭和43年城山合産(株)代表取締役就任、昭和46年鹿児島商工会議所常任顧問就任、昭和57年(株)鹿児島放送取締役、昭和60年西日本レジャー(株)、昭和62年(株)サンシャイントラベル代表取締役就任。昭和55年10月日本赤十字社金色有功章、昭和56年紺綬褒章受く。昭和58年2月第10回九州・山口経営者章受賞。平成24年10月16日没。
平成4年徳之島町名誉町民
為山 道則 大正10(1921)年 亀津 亀津尋常高等小学校、満鉄育成学校高等学院卒業。フィリピンにおいて負傷終戦。戦後密航して宮崎県大島町青年団と宮崎奄美同協会を結成、会長となり、公然と奄美の日本復帰運動開始。日本復帰運動決起第1号。復帰運動が全世界に紹介されることになった。宮崎県で社会福祉基金、日中友好協会などで活躍。厚生大臣賞受賞。
前田 長英

大正10(1921)年

3月11日

徳和瀬 昭和21年秋の全島青年団弁論大会で「退廃の咽び」を論じ、日本復帰を叫ぶ。復帰運動を声にした最初といわれる。徳之島郷土研究会長、南海日日新聞社文化賞。著書に「徳之島の昔話」「黒糖騒動記」「道の島史論」ほか。
[詳しくは下記PDFをご覧ください]
先人に学ぶ5集【前田長英】(PDF:3,062KB)
重村 一郎

大正11(1922)年

11月6日

花徳 昭和14年3月鹿児島県立第二中学校卒業。昭和22年東天城村長に就任、昭和24年辞任、昭和30年鹿児島県議会議員に当選以来昭和51年12月まで県議、昭和47年10月全国都道府県県議会議長より表彰状を受く。
昭和51年12月1日没。
昭和51年徳之島町名誉町民
徳富 重成 大正13(1924)年 尾母 鹿児島県立市来農芸学校農経科、法政大学地理学科卒。郡内で小中学校教師を勤める。郷土史研究家、測量士、2級土木管理士。徳之島郷土研究会会長。奄美文化財保護対策連絡協議会長、法政大学・鹿児島短大・沖縄国際大各研究員。雑記集成全13巻をはじめ数多くの調査報告書がある。文化財の保存・活用・発掘への貢献は極めて大きい。「徳之島町島口島唄大会」を企画。「日本地名辞典」(角川書店)鹿児島県執筆委員。大島地区社会教育功労者表彰受賞。鹿児島県文化功労者表彰。
八波 むと志

大正15(1926)年

12月1日

井之川 本名:富澤稔。コメディアン、俳優。日大演劇科。「ミスター徳之島」で売り出す。1956年南利明、由利徹と脱線トリオを結成し浅草を中心に活躍する。のち劇作家菊田一夫に目をかけられて喜劇を離れ、ミュージカルで大きな評価を受けた。1964年自動車事故によって急死。享年37。「朝日新聞夕刊」で追悼文掲載。エノケン・三木のり平による追悼興行が行われた。
高砂 浦五郎

昭和4(1929)年

11月13日

井之川 昭和17年神之嶺国民学校高等科卒業。昭和23年高砂部屋入門、昭和25年秋場所新十両、昭和26年春場所新入幕、昭和27年朝汐太郎襲名、昭和28年初場所新関脇、昭和32年夏場所新大関、昭和34年第46代横綱となる。昭和37年引退まで優勝5回、殊勲賞4回、昭和46年高砂浦五郎襲名、日本相撲協会理事として昭和47年から昭和56年まで審判部長、昭和57年から巡業部長。
昭和63年10月23日没。
昭和57年徳之島町名誉町民
[詳しくは下記PDFをご覧ください]
先人に学ぶ4集【朝潮太郎】(PDF:2,051KB)
松山 光秀

昭和6(1931)年

3月17日

徳和瀬 県立伊佐農林高等学校を卒業し、教師を目指して宮崎大学学芸学部に入学するが、病気をわずらい帰郷。
昭和35年徳之島町役場に入り、伝統文化財を担当。当時大学院生で卒業論文を書くため徳之島を訪れていた小川学夫氏と意気投合。共同で3年間かけて、録音機を担いで徳之島全島の各集落の唄を300曲あまり収録。奄美地区文化財保護対策連絡協議会会長。町文化協会長。南海日々新聞社から「第22回南海文化賞」を受賞。著書に『徳之島の昔話』『徳之島町誌』『徳之島の民俗1』『徳之島の民俗2』ほか。平成20年1月没。
[詳しくは下記PDFをご覧ください]
「松山光秀兄の郷土研究を慕って」他(郷土研究会報30号から)(PDF:309KB)

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お問い合わせ

所属課室:社会教育課郷土資料館

鹿児島県大島郡徳之島町亀津2918番地

電話番号:0997-82-2904

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