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更新日:2022年4月14日

按司墓

読み方 あじばか
史跡区分 史跡
所在集落 徳之島町手々

 

写真:按司墓 写真:按司墓

 

琉球王国が徳之島を支配していた時代の掟 大八(おきて おおはち)【注1】という人の墓です。石工としての腕を見込まれ、琉球王の命で首里に行き、城づくりに加わりました。大八はそこで人々が驚くような神業の働きを見せたそうです。工事が終わったとき、褒美として王様から特別に酒器一式を下賜されて手々(てて)に戻りました【注2】

ところがしばらくすると、大八に対し、今度は加計呂麻島(かけろまじま)の諸鈍(しょどん)城攻めに加わるよう命令が下ります。そこで大八は手勢を引き連れて参戦しましたが、なかなか諸鈍城は落ちず、戦争は長引きました。このままでは帰ることもできず、自害まで考えた大八はついに単身城内に忍び込み、敵の大将を弓で斃します。しかし大八も首に返り矢を受け、急いで退却したものの帰りの舟上で亡くなってしまいました。

この掟大八目の墓には、大八とそれを守るように6つの家来の墓石があり、これを総称してアジ墓と呼んでいます。掟 大八はとても小柄な人であったと伝えられますが大変な力持ちで、400kg余りある石を持ち上げたそうです。

ところで大八の活躍した16世紀、手々には他に政勝(まさかつ)という弓の名手もいました。諸鈍城で開かれた射的大会に優勝した政勝は、褒美の小銃に見向きもせず、代わりに「庭のソテツを頂きたい」といって持ち帰りました。これが徳之島におけるソテツの元祖であると伝えられています。

この二人の英雄は、今日手々の守り神として豊穀(ほうこく)神社に祀られています。

〈注釈〉
【注1】 掟 大八(おきて おおはち)
  掟は「ウッチ」と呼び、村の長を指す役職名です。
【注2】

沖縄県史に1546年、倭寇対策のため首里城東南壁を二重にする事業を行ったとあります。なおこの酒器一式は子孫によって家宝として残され、現在徳之島町郷土資料館に展示されています。

 

 

 

 

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所属課室:社会教育課郷土資料館

鹿児島県大島郡徳之島町亀津2918番地

電話番号:0997-82-2908

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