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更新日:2022年4月14日

トゥール墓

読み方 とぅーるばか
史跡区分 地福之島三十三聖地旧跡
所在集落 徳之島町母間

 

トゥール墓

 

母間(ぼま)の海岸聖地で最も中心になるのがトゥール墓周辺です。背後の岩山は「イシムイ(石森)」【注1】と言い、かつてその根元の洞穴には人骨が数多く見られました。前にはノロの墓があり、その前に広がる墓地を「イッシュンニャリ墓」と言います。川向こうがかつての十五夜浜でかつては砂浜が広がっていました。また沖のサンゴ礁には「トゥンジ石」という黒石があり、ハマオリのときに先祖が依る石だったのではないかと言われています。
トゥール墓は左右を川に挟まれ、この2つの川は上流で「母間線刻画」を挟み、そこからこのイシムイまで1本の道が下りています。線刻画の一帯はかつてノロの祭祀場で、川尻のイシムイにノロ墓、近くにはノロ屋敷もありました。このことからこの道は神道(かみみち)であったと思われます。

母間線刻画:線刻画石群を取り巻く聖地配置略図

なおこの周辺にはいくつもの川が流れ込んでいるため、サンゴ礁が発達せず、昔から天然の港として利用され、薩摩藩時代には砂糖蔵も置かれていました。

〈注釈〉
【注1】 イシムイ(石森)
  このイシムイ周辺の集落をムギジャ(麦田)と言い、文化13年(1816)の「母間騒動(母間論議とも言う)」の出発地点です。代官所に捕まった村の掟 喜玖山(おきて きくざん)を救い出すため、村人630余名が鉄砲や竹やりなどを手に亀津まで押し寄せました。代官所から喜玖山を救い出した母間村の人たちは、12名の有志を募り、死を覚悟で鹿児島の藩庁へ直訴を行います。薩摩藩は厳しい武家社会でしたから、百姓一揆など起こしたら即打ち首になることを覚悟しなければなりません。
ところが、薩摩藩はこの母間村の訴えに判断がつかず、「沸騰組」と呼んで3年間も保留します。
結局、藩が下した判決は首謀者5名を七島へ遠島し、残りは無罪とするものでした。薩摩藩としては極めて寛大な処分で、なぜこのような判断を下すことになったのか今もわかっていません。
ただ最近になって一部の研究者から、この母間騒動は文化5年(1808)薩摩藩の改革に失敗し、徳之島へ流罪となった近思録党の思想的影響があったのではないかと指摘されています。

 

 

 

 

 

 

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所属課室:社会教育課郷土資料館

鹿児島県大島郡徳之島町亀津2918番地

電話番号:0997-82-2908

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