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更新日:2022年4月14日

井之川噯役場跡

読み方 いのかわあつかいやくじょうあと
史跡区分 史跡
所在集落 徳之島町井之川

 

薩摩藩の支配下にあった明治5年までここには噯役場(あつかいやくじょう)と呼ばれる行政機関があり、与人(よひと)、横目(よこめ)、目指(めざし)、筆子(てっこ)等が常勤して井之川噯(いのかわあつかい)【注1】の仕事を取り仕切りました。

鹿児島縣下徳之島全圖(明治13年):神戸大学所蔵

薩摩藩治下〈慶長15年(1610)~明治5年(1872)〉徳之島は3つの間切(まぎり)、6つの噯に行政区域が分かれており、このうち東間切(ひがしまぎり)は亀津(かめつ)と井之川の2つの噯に分かれていました。この地には噯の役場(やくじょう)が建ち、井之川、諸田(しょだ)、神之嶺(かみのみね)、久志(くし)、母間(ぼま)、轟木(とどろき)、山(さん)の村々を管轄しました。

井之川は天城(あまぎ)の湾屋(わんや)と共に藩の指定港として繁栄し、津口番所(つぐちばんしょ)お蔵など各種の行政施設や宿がそろっていました。このため弘化3年(1846)亀津が大火に見舞われた際、代官所が井之川に移ったこともありました。

〈注釈〉
【注1】 噯(あつかい)
  「噯(あい)」は現在「おくび。げっぷ」の意味ですが、薩摩藩の行政用語で「あつかい」と読みます。ふつう江戸時代は「取噯(とりあつかい)」といった用語に使い、「訴訟の仲裁をする」の意味に用いられていますが、薩摩藩での噯は、外城(とじょう。後に郷(ごう))制における麓(ふもと)三役と呼ばれる上位の責任者を指します。

 

 

 

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鹿児島県大島郡徳之島町亀津2918番地

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