閉じる

ホーム > 子育て・教育・文化 > 文化 > 史跡紹介 > 【史跡】花徳 > 花徳神社

ここから本文です。

更新日:2022年4月14日

花徳神社

読み方 けどくじんじゃ
史跡区分 地福之島三十三聖地旧跡
所在集落 徳之島町花徳

 

 

昭和初期の花徳全景(「徳之島万華鏡」から)

 

村のほぼ中央に位置する花徳神社【注1】は、平成7年に建てられた新しい神社で、戦没者慰霊碑も同時に建立されました。土地は兼祐喜人、上野秀次の両氏が提供し、鳥居は中村正弘氏が寄進したものです。この花徳神社がある半當(はんた)と呼ばれる場所は、集落発祥地とされる上花徳(うえけどく。里と呼ばれる)と村の中心である前川集落を結ぶ地点にあたり、この近くからは土器片が発見されています。上花徳の城畠(うすくばて)でも弥生時代前期の遺跡が発見されており、その北の谷には「ソゥジイジュン(水神の拝所)、南にはノロ墓、東側の浜には洞穴墓が見られ、前川集落には殿地屋敷跡(とのちやしきあと)が残っています。

6月に花徳集落で盛大に行われる豊年祭りの際には、花徳神社に必ず立ち寄り、豊年祈願を行います。戦後間もない頃始まったこの祭りは、五穀豊穣を願う花徳の伝統行事として受け継がれ、今では花徳の名物行事となりました。昔は万田長道(まんだながみち。花徳・轟木(とどろき)線)の水分(ミジワシ)から出発して集落内を廻っていましたが、現在は上花徳、前川、新村(しんむら)【注2】に分かれて行われています。

昭和初期の下田橋付近(「徳之島万華鏡」から)

徳之島一豊かな農地を持つ花徳【注3】は、徳之島町全体の字数の14%にもあたる140もの字名を持ち、宮城(みやぐすく)や上城(うえぐすく)といった城(ぐすく)地名が見られ、花徳按司(けどくあじ)と大城按司(ふうぐすくあじ)の争いといった伝承も残る、深い歴史を持つ集落です。

〈注釈〉
【注1】 花徳神社
  明治8年に徳之島支庁長から島内毒蛇被害消滅祈願所として、鹿児島荒田八幡神社の神霊(円鏡体)を勧請し、花徳前山に建立するよう命ぜられましたが、花徳村が反対したため井之川に建立されています。
【注2】 新村(しんむら)集落
  新村集落は、江戸末期に7人の役人たちが自費を出し合って、4ヘクタールほどの土地を整地し、戸数65、人口265人を移転させて生まれました。
【注3】 大正11年大島地区「大地主土地経営調」によると、奄美の大地主12名のうち5名が花徳とあります。

 

 

 

 

 

ページの先頭へ戻る

    『ウスク畑遺跡』へ

大きな地図(Googleマップ)でルート検索を行う(外部サイトへリンク)

お問い合わせ

所属課室:社会教育課郷土資料館

鹿児島県大島郡徳之島町亀津2918番地

電話番号:0997-82-2908

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください

このページの情報は役に立ちましたか?

このページの情報は見つけやすかったですか?