徳之島学へのいざない―とくのしま今昔―
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母ぼ間ま轟とどろ木き25母間集落は、4kmもの⻑さに及びます。手前から池いけ間ま、⻨むぎ田た、花け時どき名なの3つの集落の集合体です。⻨田は現在、反たん川かわと大おお当あたりの2集落に分かれています。「ボマ」の語源は「フーマ(大村)」ではないかといわれています。1816年、薩摩藩を相手に起こした「母間騒動」の地です。古くから徳之島一、働き者の集落としても知られています。花け徳どく方言でキドゥと呼ばれる花徳は、サトと呼ばれる高台の上うえ花け徳どくと、その南側に広がる前まえ川かわ、海岸沿いの新しん村むらの三つの集落からできています。新村集落は、幕末に地元の有志達によって新たに開かれた集落です。なお、理由はわかっていませんが、薩さつ摩ま藩はん時代の花徳は⻲かめ津つ噯あつかい(行政区)の飛び地になっていました。徳之島一豊かな農地を持つことで知られる集落です。轟木は、万まん田だ川がわの源流域にあたり、水が豊富で「全ぜん島とう口く説」(各集落の特徴を唄った)では米どころとして紹介されている集落です。写真後部の単独峰「大ふう城ぐすく山やま」は、徳之島最初の按あ司じ(支配者)が住んだ山との伝承が残っています。轟木の人々の一部は、大城周辺から降りてきた人たちだといわれています。

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