徳之島学へのいざない―とくのしま今昔―
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神かみ之の嶺みね井い之の川かわ旭あさひヶが丘おか下しも久く志し下久志は、明治20年までは久く志し村むらと呼ばれていました。明治35年に銅山が発見され、鉱石は、画面下に流れる三み寿ず里り川がわ沿いに集積しました。そこから沖合にやってくる運搬船に小舟で運んでいました。集落中央の浜は十五夜浜と呼ばれ、旧八月十五日から二日間にわたって相撲や力ちから石いしなどの十五夜行事が賑やかに行われることで知られています。方言でカンニと呼ばれる神之嶺。集落全体が海に突き出した小高い地形になっていて、金かな見み、トンバラ、大島、加か計け呂ろ麻ま島じまの島々、そして沖合を走る船が一望できる絶景の地です。右手の小山は、神之嶺小の校歌に「鎮ちん守じゅ八はち幡まん」と歌われているハチネ(八之嶺)です。薩摩藩の初代奉行所はここに置かれていたとの伝承があります。江⼾時代、藩の指定港として井之川噯あつかい役やく場じょう、津つ口ぐち番ばん所しょ、御お蔵くらが置かれていました。1736年に藩の命令で創建された徳之島初のお寺「安あん住じゅう寺じ」は、画面右下のウェンニグスクと呼ばれる小山の前に建てられました。旭ヶ丘には、14世帯、約30名が住んでいます。県営パイロット事業によって、大字井之川に新たに誕生した集落です。昭和39年8月、入植が開始されました。元はたいへんな荒れ地で、入植は無理だと言われていましたが、母間集落の人たちを中心に20⼾が移住し、現在に至っています。大原地区と併せて7億1200万円が投じられ、人々の粘り強い努力により458haに及ぶ農地が出現しました。24

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