徳とく和わ瀬せと諸しょ田だ琉球支配時代から徳之島全域を統治する機関が置かれていた⻲津。今も国や県の庁舎は⻲津に置かれています。昭和42〜56年にかけて沖合約200m、幅約1500mにも及ぶ埋立てを行い、隣の⻲徳集落と一体化しました。明治20年までの行政名は秋あき徳とくといいました。地元での呼称は「あきちゅ(秋津)」です。1609年、この港で琉球へ侵攻中の島津軍と佐さ武ぶ良ら兼がね掟おきてらに率いられた島人たちとの間で戦いが起き、300名もの戦死者を出したという記録が残っています。中央に諸田池(1670年築造)が見えます。諸田池の右端から海岸線に伸びる小道が徳和瀬(右側)と諸田(左側)の境界です。小道一つ挟むだけですが、琉球時代からノロがそれぞれに配置されており、別の集落として発達してきました。23亀津全景亀徳
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