亀かめ津つ大おお原はら1団地(右上)と2団地(左下)白しら井い尾お母も令和5年1月時点で12世帯、17名の集落です。近年は「みなみばら」と呼ばれることが増えました。昭和30年の統計では66世帯、365人も住む大きな集落でした。南原は⻲津の行政域ですが、子供たちは⻲津小学校ではなく尾母小学校に通っていました。⻲津小学校に通い始めたのは、昭和30年代に入ってからです。白井は方言でシリといいます。目め手て久ぐの人たちの耕作地として発達し、明治になって⻲津村(現徳之島町)に編入されました。奄美群島がアメリカから日本復帰を果たした昭和29年には143人も住んでいました。しかし、道路整備が進むにつれ、経済基盤が⻲津に移り、現在ではわずか1世帯が残るのみとなっています。尾母は、写真手前の浦うら久く田だ川に橋が架かるまで、深い谷を大きく迂う回かいしなければ、⻲津から入れませんでした。集落南側(写真左)には伊仙町との境界である本ほん川がわが流れ、そこは高さ60mの断崖になっています。尾母は標高200mの高台にあるため、夏は涼しいですが、霧に覆われることが多い集落です。大原は、旭ヶ丘とともに県営パイロット事業で昭和40年11月に誕生した集落で、大字は⻲津になります。徳之島内の集落や与論島などから計40⼾が入植してできました。交通の便が良くなるまで、子供たちは⻲津小学校に徒歩で(約5km)通っていました。22亀津南はい原ばる7ドローンでみるシマ
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