▲名称が変わった村明めい治じ時じ代だいに入ると間ま切ぎりと噯あつかい▲ 1649年までに薩摩藩が製作した「正しょう保ほう琉りゅう球きゅう国くに絵え図ず」の写うつしから徳之島の北部(東京大学史料編纂所所蔵を加工) *⾚枠には「⻄目間切之内てゝ村」と記されています。▲ 徳之島の噯と村15世紀(1400年代)前半、徳之島は琉りゅう球きゅう王おう国こくの支配下に入りました。徳之島町手て々て集落の一家に伝わった古こ文もん書じょの一節には、「とくのにしめまぎりのててのろは」(訳:徳之島の⻄にし目め間ま切ぎりの手々ノロは)とあり、この時代の徳之島の行政区画が「間ま切ぎり」と呼ばれていたことがわかります。間切は複数のシマ(集落)をひとまとめにした単位です。慶けい⻑ちょう14年(1609)、島しま津づ氏による軍事侵攻(琉りゅう球きゅう侵しん攻こう)の結果、徳之島は薩さつ摩ま藩はんの統治下に置かれました。薩摩藩は琉球王国が採用していた間切という単位を受け継ぎつつ、一つの間切のなかに二つの「噯あつかい」(6〜9の村からなる)という新たな区画を設けました。18時代が明治に変わったあともしばらく間切という単位は使用されましたが、明治20年(1887)に一つの画期がありました。⻲かめ津つ村むら外ほか八村(八村:⻲かめ徳とく村・徳とく和わ瀬せ村・諸しょ田だ村・神かみ之の嶺みね村・井い之の川かわ村・尾お母も村・白しら井い村・下しも久く志し村)と山さん村むら外ほか五村(五村:母ぼ間ま村・花け徳どく村・轟とどろ木き村・金かな見み村・手て々て村)というまとまりが創つくられ、これが、現在の徳之島町域の原げん型けいとなりました。村の名前が変わった明治20年(1887)にはもう一つ大きな変化がありました。鹿児島県の告こく示じによって、秋徳村・和瀬村・久志村がそれぞれ、⻲徳村・徳和瀬村・下久志村と改称されたことです。その理由は、奄美大島に同じ名称の村があるため、徳之島の村の名称を変えたといわれています。明治20年以前秋徳村和瀬村久志村明治20年⻲徳村徳和瀬村下久志村5徳之島町ができるまで
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