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更新日:2024年3月11日

盛島角房

徳之島が生んだ一級の人物としては、奥山八郎(元日弁連会長)、徳三宝(柔道家)、吉満義彦(哲学者)、龍野定一(教育者)らの先人が知られているが、歴史家の間で知る人ぞ知る存在が「蒙古王」とも呼ばれる盛島角房である。そのように呼ばれるのは、終戦まで続いた蒙古(現在のモンゴル)自治政府の舞台回復をした人物だからであり、亀津児童公園県道側入口にあるガジュマルは、盛島を尊敬する青年が偉業を後世へ伝えようと移植したと伝えられている。

盛島角房について

盛島邸から児童公園に移植されたガジュマル
盛島邸から児童公園に移植されたガジュマル

蒙古再建の父盛島角房

モンゴル版“ラストエンペラー”徳王(ドムチョクドンロプ)の相談役~明治、大正、昭和と大陸を駆け抜けた郷土の傑物~

蒙古再建の父 盛島角房

古来より遊牧と社会主義、革命と独立をたどった草原の国・モンゴル。中央アジア東部に位置し、モンゴル高原の北部にある内陸国で、蒙古帝国創建の雄チンギス・ハンで知られている。明治期、日本のアジア政策の一翼を担う自負のもと、多くの「大陸浪人」が中国や朝鮮などに渡っているが、世界史に残る盧溝橋事件(1933年)の前後、日本の関東軍参謀部の求めに応じてモンゴルで情報活動し、民間人でありながら軍人に才知の点で劣らず、実行力と決断力で実績を示す一人の日本人がいた。徳之島町亀津出身の盛島角房(もりしまかくふさ)である。

写真:動乱の大陸を駆け抜けた盛島角房(南海日日新聞1998年1月1日号より)

亀津生まれで明治かたぎの典型~狭い日本に住み飽きた~

亀津生まれで明治かたぎの典型
盛島角房の生家周辺
(南海日日新聞1998年1月1日号より)

盛島角房は父角三、母おとかねの三男として1886年(明治19年)10月15日、徳之島の亀津村亀津に生まれた。兄に角一、角安がいた。角安は中学のころ病死したが、角一は大蔵省の役人を経て徳之島に戻り、亀津郵便局長を務めた。生家は由緒ある家柄で、父角三は村のあちこちに田畑を持ち、有数の分限者(資産家)だったという。

盛島を知る名城秀時氏は「明治の亀津人士を代表する人物の一人として角房氏を推すことはだれも異存なかろう。狭い日本に住み飽きた、海の向こうには広い国があるとして幾多の英才が大陸へ渡ったが、角房はそれら先達の一人だった。当時の軍部とつながりが深く、内蒙古の独立などに尽力した」と述懐している。

草原の国に革命の嵐~列強にほんろうされる蒙古~

徳王と盛島角房
徳王初来日に同行した盛島(後列左から3人目)
(南海日日新聞1998年1月1日号より)

1911年(大正元年)、辛亥革命で清朝が滅びたのを機に、外蒙古はロシア帝国の支援を得て独立を宣言した。しかし、中国の反対で自治を認められるのみとなり、ロシア帝国に10月革命が起こると中国によってその自治も撤廃させられた。1921年にはロシア赤軍(革命政府軍)の指導・援助を受けた人民義勇軍が庫倫(クーロン・現ウランバートル)を占領していたロシア自衛軍を破り、同年7月に独立(立憲君主国)を達成した。

「大陸浪人」と呼ばれた人達は、外地の日本人商店等を拠点として民情、政情を探り、軍部と結んで兵備地誌の調査などを行っていた。関東軍は、内蒙古自治運動(1933年・昭和8年)が始められると盛島の民間人としての肩書を利用し、西ウジュムチン、アバガ、百霊廟の特務機関長に起用。策略や戦術に優れていた盛島は、蒙古軍政府の最前線で情報取集活動にあたった。

盛島角房新聞記事
革命後初の外蒙古入りを報じた大阪毎日新聞
(南海日日新聞1998年1月1日号より)

軍政府に接近した盛島はやがて自治政府樹立の王公ドムチョクドンロプ(徳王)の側近として活躍する。徳王は1938年(昭和13年)と41年(同16年)に蒙古政権主席として来日。

盛島がこれに同行した際、日本の新聞などは「鹿児島が生んだ蒙古再建の父」の見出しで、「遊牧民の根本的生活の建て直しに着手し、教育、産業、人口問題など一つとして同氏の右に出ざるものとてない有り様である。徳王は同氏を『先生』の敬称をもって呼び、蒙古の将来に重大な意義を持つ時、同氏の存在は心強いものがある」と書き立てている。

おいが見た叔父・角房像「得取るより、名を取れ」実践した人

盛島清一

神戸市灘区の盛島清一(79)は角房の長兄角一の長男で、角房の甥(おい)にあたる。亀津小から旧制鹿児島一中、第七高等学校、京都大学法学部に学んだ。1942年(昭和17年)9月に川崎重工業に就職。製鉄部門で働き、労働部長、業務部長、運輸部長などを歴任し、監査役など役員まで上り詰めた。

「叔父は陸軍の参謀本部と力を合わせ、満州と内蒙古を独立させて共産主義に備えようとしていたが、国家のため一生をなげうってよくやった人だったと思う。当時の生活環境もあっただろうが、父と叔父の性格は全く違うものだった。父は大蔵省の役人だったこともあって、大変にきちょうめんだった。その父は弟(角房)のことについて『日本国のために命を懸けてすごいことをやるな』と言っていた。得を取るより名を取れということわざがあるが、それを実践した人だった。本人も本望だったろう」。

写真:南海日日新聞1998年1月1日号に掲載された盛島清一

盛島角房略歴

明治19年10月15日

 

鹿児島県大島郡亀津村亀津に生まれる。

亀津高等小学校卒業

盛島角房略歴
明治41年 宮崎県延岡中学校卒業
明治42年頃 東京高等師範学校入学
明治43年頃 同中退
明治44年頃 台湾台中公学校柔道教師
明治45年 北京・坂西公館に入る。
大正2年から3年間 晋北のラマ寺において語学習得・現地事情調査
大正8・9年 庫倫駐在
大正10年から 張家口駐在
大正15年8月 大阪毎日新聞に外蒙古視察記を発表
貴族院(議長徳川家達公)で外蒙事情を講演
昭和2年 「外蒙古を中心としたる日露支関係」を著す。 外蒙古を中心としたる日露支関係
外蒙古を中心としたる日露支関係
昭和8年8月 ウジュムチン特務機関長
昭和9年4月 アバカ特務機関長
昭和9年12月 「外蒙古と自治内蒙古の現状」を著す。
昭和11年3月 百霊廟特務機関長
昭和19年3月 蒙古善隣調査顧問
昭和20年4月 蒙古聨合自治政府参議
昭和21年7月26日 姶良郡霧島村松永霧島国立病院にて逝去

お問い合わせ

所属課室:社会教育課郷土資料館

鹿児島県大島郡徳之島町亀津2918番地

電話番号:0997-82-2904

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